日  誌

スケジュール
2008年10月②

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2008年日誌

10月4日(土)
ワークショップ2008年・秋 西荻館
10月4日(土) 11時30分開会
------- 作業所について徹底的に話し合おう -------
ゲスト講演:赤羽隆一さん(“オープンスペース街”)
      「作業所を立ち上げた時の“街”、そして今」
           “街”は練馬区の作業所です

「堅く手を握れ」「君の手を握る」「その手を決して離すな」
『蟹工船』の作者、小林多喜二の獄中書簡に何度も何度も繰り返される表現であり、具体的な呼びかけです
あなたには、堅く手を握って決して離さない仲間がいますか?にしおぎ館ワークショップは今回で7回目です。

 年表に沿って、大体、こんなことを話しました。
 「街」の歴史は、「後ろを振り返らずに、猪突猛進してきた15年間」でした。「街」はどこから来て・どこへ行こうとしているのかを改めて考える時間をいただきて感謝しています。今日は3人のリレー・トークというやり方で進めて行きたいと考えています。
①地域の時代 1993年 年表①~⑨をつくりましたが…1―2年おきにカメレオンのように生態をかえているので非常に分かりづらいと思います。「作業所について徹底的に話し合おう」という今日のサブ・テーマにあっているかと思いますが、「街」はどこから来て・どこへ行こうとしているのかについて、浅ーく・駆け足で話していきます。

 ただ一ついえることは「徹底的に地域にこだわってきた」「地域住民の団結・連帯の拠点」を作りたいと思いで試行錯誤してきた15年間だったなと思っています。それと、11本の短いビデオを入れて話を進めたいと思っています。
②練馬区・外に向かった時代 1994年
③共同作業所のスタート時代 1996年
④インターネットの時代 1998年
⑤「キーサン革命」の時代  1999年
⑥音楽と沖縄の時代 2000年
⑦政治の時代 2000年6月
⑧辺野古の時代 2004年
⑨労働運動の時代 2007年

ビデオ
以下、アメーバビジョンからユーチューブへ移行中です。
① 差別について考える「差別まつり」 1994年

② 「ジュゴンの家」オープン 2000.10
③ 2000年12月 名護・やんばる平和まつり
④ 2001年4月 名護・満月まつり
⑤ 医療観察法案 粉砕 国会前行動 2001.5
⑥ 2003年1月 イラク攻撃 NO ワシントン50万人反戦集会
⑦ 渋谷ピースウォーク 2003.4
 海に座る 晋くん
⑨ 民主労総大会 2005.11
⑩ G8サミット粉砕闘争 2008.6
⑪ 2003年5月16日 関町ピースウォーク
 久良木幹雄さん

ビデオ
 アメーバビジョンが閉鎖になるので、↑で引っ越し終了しましたが、
ユーチューブの方がサクサク見れます。
① 差別まつり 1994 ⑥ ワシントン 2003.1
1994年10月差別について考える「差別まつり」 2003年1月 イラク攻撃 NO ワシントン50万人反戦集会
② 「ジュゴンの家」オープン 2000.10 ⑦ 渋谷ピースウォーク 2003.4
沖縄・名護「ジュゴンの家」 オープン その① 2003年4月 イラク反戦 渋谷ワールド・アクション
③ やんばる平和まつり 2000.12 ⑧ 海に座る/晋くん
2000年12月 名護・やんばる平和まつり 海に座る 晋くん
④ 満月まつり 2001.4 ⑨ 民主労総大会 2005.11
2001年4月 名護・満月まつり 2005年11月 ソウル民主労総 全国労働者大会
⑤ 医療観察法案 2001.5 ⑩ G8サミット粉砕闘争 2008.6
医療観察法案 粉砕 国会前行動
久良木さん おまけ 関町ピース・ウォーク
久良木さん 2003年5月16日 関町ピースウォーク


「街」を作る前、1992年10月練馬区の共同作業所「ほっとすぺーす関町」の職員になりました 
 所長の久良木さんのこと。久良木さんの紹介ビデオこの変なおじさんに影響されて、ずっとここまで来てしまいました
 職員初日、臨時の所長のクラキさんに「何をしたらいいんですか?」と聞いた時、「メンバーの話を聞いていなさい」と言われ、以来、職員の部屋にはほとんど居ないで、ずっとメンバーと雑談する毎日でした。雑談の中では本音が出ます。1月に「ほっとすぺーす関町」としては初めてのメンバーとの個人面談をしました。
1993年3月 「オープンスペース」とは、地域の人たちに開かれた場、という想いを込めてつけました。
1、共同作業所における低賃金の問題
、「精神障害者」(以下、当事者とする)に対する差別と偏見
3つ目の理由は、当事者の住居問題です。
①地域にこだわった時代  地域の中で  『街』の1年間の実践から
 『街』における1年間の活動を通して、考え方が変わってきました。最初は共同作業所「ほっとすぺーす」からだけの視点で地域のことを考えていた。しかし『街』で、「ほっとすぺーす関町」のメンバーの人たちだけではなく、関町で暮らしている5つの共同作業所・3つの病院のデイケアに通う人たち、作業所へ通えない・通わない人たちなど100人近い当事者と出会うことができた。

 そして「街」が「オープンスペース」(地域の人たちに開かれた場)であるがゆえに、当事者だけでなく他の様々な「障害」を持った人たち、一人暮らしの高齢者、在日アジア人・外国人労働者やその他の人たちと出会った。そして彼らがこの地域社会の中で、生きる上での困難性に直面してること知らされた。つまり『街』は、地域に開かれた場として作られたことで、「出会い・交流・よろず相談の場」になった。開店当初の「オープンスペース」の思いが、この1年間の実践の中で徐々にではあるが具体的なものになりつつある。

 そのことに踏まえて『街』の今後の方向性は、作業所から地域のことをを考え始めるのでなく、地域の中から、この社会=地域が生きづらいと思っている人たちと手を結び、今の生きづらい「町」を「障害」のある人も・ない人も支えあって共に生きる「街」へと、さらに前進していきたいと考えています。当時、そういう風に考えていました。
地域の団結の砦
 地域の人たちの立上がり
 私は、いまだ見ぬ地域の人々との結合の可能性に賭けたといっていい。しかし開店の準備段階で「店の持続性」に対する疑問が提起された。「本当にやって行けるのだろうか?」と。しかし、私はそれに関してまったく楽天的であった。

 確かに当時の主体的力量を考えた場合、持続は困難だった。だが、私の中には地域の人々が必ず援助してくれるという「確信」があった。それは私の「人間は変わりうるもの」「民衆は必ず立ち上がる」という不動の確信に由来する。そして、地域の人たちが陸続として立ち上がっていくイメージの中に、『街』が成功する条件を見ていたといえる。そのイメージ、言い換えれば、そうした想像力(現実を変革する内容を基礎とする)に依拠することによって『街』は開店以前からすでに成功する条件を獲得していたといえる。また、そうした想像力とその実践なしには、今日いわれている「ノーマライゼーション」(私流にいえば、「支えあい共に生きる街」)は、そもそも絵に描いた餅にすぎない。

 『街』開店以降の2か月の経験は、「民衆は元気」ということを証明した2か月であった。「ほっとすぺーす関町」と『街』、ボランティアと地域の人たちとの関係がさやかながら結合され始めた日々でした。
5、トリエステの教訓
 羽仁五郎は『都市の論理』の中でこう書いている。「そこに地域社会があったか、なかったということより、そこに革命的性質があったか、なかったかということによって精神障害者の解放か、拘束か、ということが決定された」と。
 つまり「地域」ということを考えた場合、「地域一般」というものが問われているのではない。これまでは「行政に多くを依存しずぎてきた。住民による直接参加と自らの地域社会づくり」という傾向が強かったが、やはり行政の側からの(上からの)地域社会づくりに依存しないで、地域社会の主体である地域住民を中心とする「下からの」地域づくりというものこそが、羽仁五郎のいう「先進的な内容をもった地域」づくりを進めていく上で大切なことだと思った。

 イタリアでは、その歴史性を利用し、地域との結びつきを強める中で精神医療改革を社会改革の一環としてすすめていった。トリエステのバザーリア医師は、従来の精神医療をのりこえる道を提起する。それは医師・「患者」関係を根本的にひっくり返すことである。当事者の「病気ではなく、苦悩の問題に共同してかかわる時、彼と私との関係、彼と他者との関係も変化してきます。そこから抑圧への願望もなくなり、現実の問題が出てくる。自らの問題が心理学的な問題などではなく、社会的、それゆえに政治的な問題であることを学びます」と。そして、そこから医師と「患者」の関係だけでなく、入院制度の問題、制度と住民一般との全く新しい関係を展開していくことになる。

 バザーリア医師はトリエステの解体に際してこう語った。「病院の壁が残っているかどうかは問題ではありません。私たちは壁の内外を変えることによって、施設の論理を破壊するのです」と。

 地域との結合
イタリアの北部にあるパルマ県の「草の根精神医療」は、1969年の学生たちによるコロルノ精神病院の占拠によって開始の鐘を告げ知らせた。35日間にわたる占拠闘争の中でパルマ全体が活性化していく。「何百回と集会をもった。工場でも、公民館でも、あちこちの町や村でも。あらゆる人がそれに参加した。労働者も、農民も、知識人も、そして患者自身も」

 またこの占拠闘争には、多くの患者さんが参加した。病院での会議で、彼らの多くが発言し、自らの要求(思想の自由、自己決定権など)を伝えた。このように多くの地域住民の参加の中で「草の根精神医療」がすすめられたパルマとは、いかなる地域だったのか? この精神医療改革の進展をみるとき、パルマの歴史を抜きには語れない。

 1922年、ムッソリーニの「ローマ行進」に対して、ファシストを追放しバリケードを作って抵抗したり、1943~45年にはナチスの占領軍に対してパルチザンを結成して闘った。北イタリアのいたる所で労働運動の歴史があり、こうしたファシズムとの闘いと分かちがたく結びついている。冒頭で書いたように「精神医療改革を社会改革の一環」としてすすめていく根拠がここにある。

 精神医療改革の闘いが、多数の住民の参加のもとで展開される所はどこでも、こうした労働者組織が強く根を張っている。当事者の社会参加を実現しようとするとき、こうしたグループの協力があった。それは労組や協同組合、社共の分会のほかに、文化、歌、狩り、釣りのクラブにいたるまでの各組織網がフルに動員されたのである。

 ともかく『街』を基軸とした地域との関わりの中で切り開いてきた5ケ月間の成果と教訓を生かしきり、さらなる飛躍に向けて前進していきたいと思う。「病気が精神病院で超克されるとは思わない。私たちは外部社会で病気にうち勝たなければならないし、それは社会が変わることでそうなるのだと思う」
7月 縁台パーティー 食事会の始まり
5月 関町ケアネットワーク №27,28
仲間・相談 1994年5月 心の悩みのある人の 憩いと相談の場「関町ケアネットワーク」を設立以降3年間、同所の専属相談員
 「関町ケアネットワーク」が出来た経緯「街ニュース」27号(1994年5月10日発行)
 5月の連休のさなかに、Yさんが自らの手で尊い命を断たれました。F1ドライバーのアイルトン・セナがレース中で亡くなった日です。『街』の関係者は、その突然の悲報を断腸の思いで受け止めました。関町地区において精神保健にかかわってきた一員として「私たちにもっと力があったら、彼が死を選ばずに済んだのではないか!」という痛苦の念でいっぱいです。
           
 Yさんの死を、彼の個人的な問題ではなくて、彼の死は、社会全体の問題なのです。それは「精神障害」を持った人たちが今の社会の中で置かれている厳しい状況の反映であり、地域社会の中で安心感・充実感を持って生きられないことに対する告発です。また、関町地区における地域ケア態勢の不十分さを追及する叫び声でもあります。
          
 私たちはYさんの死を、私たち一人ひとりの問題としてシッカリと受け止め、Yさんの命を賭けた叫びに応えるためも、また第二・第三のYさんを出さないために、憩いと相談の場「関町ネットワーク」を作ることを決めました。安心して憩える場、困った時にいつでも気軽に出向ける場づくりを目指します。

 ということで、病院のケースワーカー、児童相談所に勤務していた臨床心理士、作業療法士、共同作業所の職員、患者会の人、児童相談所に勤務していた臨床心理士、ロック・ミュージシャン…いろいろな人たちが悩みを聞く場を作りました。
 当時は「いのちの電話」しかなく、それもほとんど繋がらない状態だったので、東京だけでなく首都圏の人たちからも電話
相談が来ました。その模様は、精神保健ボランティア「ひらく かれる つなぐ」というビデオになりました。
5月 ミック、旭出養護学校の体験実習。
② 関町から外に向かった時代 1年目は、関町地域を出ないで、やってきましたが・・
1994年
~96年月
「精神障害者」日本カナダ交流。3次に渡る交流を実現した。当事者を中心にしてバンクーバーから19人を招き、日本から62人がバンクーバーを訪問するという交流は日本の精神障害者当事者たちを大いに勇気づけた。
 久良木幹夫さんのこと http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/1255/184.html
 私は、10回入院し、一応、保護室から、閉鎖病棟、準開放病棟、開放病棟を一通り経験しています。10年ちょっと前に陽和病院でちょっと抜けたんですね。なぜ抜けたかというと、陽和病院の患者会活動をやるようになった事が大きなキッカケでした。

 僕よりも辛い思いをしてきた仲間が病院にはいっぱいる。20年~30年と入院していて。そういう人達と一緒にワッショイワッショイやっている中で、病いが抜けたわけです。それで患者会活動を始めてその延長で作業所「ほっとすぺーす練馬」づくりをした。ひょんなことから応援で所長を1年間やる羽目となって、「ほっぺーす関町」のオープンにもかかわり、その時に、ハネやん(赤羽さん)と出会って、それ以来の「街」とのおつきあいです。ほんとに「街」に滞在し、大変勉強させてもらった1ケ月間でした。そして勇気づけられました。なぜかというと、作業所が東京には250ケ所くらいありますが、残念ながら「街」のような作業所は、数えるほどしかありません。

 なぜ作業所をつくりだしたかというと、病院に大量入院させられている。地域でいろんなこういうサービスの施設があれば……ということで「受け皿」として、作業所づくりが始まった。残念ながらその中で、病院は患者を隔離・収容する形になっていて、多くの作業所は、地域で患者さんが悪いことをしないように管理していく施設として、本人は意識していなくても実質的にそういう機能している作業所が多いんです。それでは何の意味もないんで、患者さんがことを起こさないように作業所に通わせれば何とか地域で暮らして行けるだろうという発想。保健所とか作業所づくりににたずさわっている人、一般市民を含めて、そういう流れがあるわけで。そう、やろうとしている人達は気持としては「善意」なんだけど、それでは困るわけです。そうじゃない作業所を「ほっとすぺーす」でも目指してきた。

 4月に「街」は作業所になった。そういうことのない作業所、一言でいうと、作業所はメンバーさんが「利用する」ためにあるでしょ。現に得るものがあるから通われるわけで。自分の都合に合わせて、調子が悪かったら休むとか、気兼ねなく休むとか、そう作業所であるべきですよね。でも多くの作業所は、「来なければいけない」「通わねばならん」場所という感じで、まさに管理される場所になってしまう。理屈抜きに「街」では、皆がうまく「利用する場所」になっているなと。いろいろ壁はあるだろうが、短期間にいい作業所になったなぁということ、こういう風にやれば、そういう場所になると教えられたことが、一番の収穫でした。それと、本物が出てきたなぁということで勇気づけられもしました。こ
 
 もう一つは「街」の1階の壁に写真が貼ってあるでしょ。「精神障害者日本カナダ交流」の人たちが来た時の写真です。僕らが始めたカナダの当事者との交流の写真です。第一次交流としてカナダから10人ほど見え、練馬区の諸施設へ見学に行き、その際「街」の前で撮った写真です。

 カナダの代表団は「街」に、ものすごく感心し、興味を示したんですね、実際に見て。実は、こういう場がないんです、カナダには。リサイクルショップというのは、ありますよ。ただ、こういう形の当事者のための施設としてのリサイクルショップはない。これはある意味じゃ、カナダと交流をやった目的はカナダでは、いろいろケアが進んでいて、そこから学びとろうということで始めたわけですが、さらに進んだケアの姿がここにある、ということでカナダの人たちも気が付いて、興味を示された。  どういう事かというとね。

 カナダでは共同住宅から、作業所、クラブハウスとか、たまり場とか、グループ活動の拠点とか、整理がつかない位いっぱいあって、そういうことで病院をどんどん減らして、その資金を地域に回している。人口対比でいうと、日本では35万人ほど入院していますが、カナダでは(入院者は)10分の1くらいしかいない。そのカナダの仕組みを地域に回して、地域で皆が“普通に生きていける”ようにという風になっている。そのカナダの中でも、“街”のようなこういう場はないんです。なにが欠けているのかというと、一般市民との交流の場ですね。カナダでも一般市民との交流の場はあります。あるいは当事者がいろんな事をやることにボランティアやリサイクルをやっている人たちが応援という形はあります。  

 「街」は、日常的に開かれ、つきあっていますよね。それが大きいんです。一人ひとりのお客さんが「街」の趣旨を理解して参加していてオープンしていて、お客さんがどんどん増えてきて理解してくれてきている。その繋ぎ役としての貴重な存在がボランティアの方々ですよね。日常的に開かれていて、我々と地域の人たちがふれあう機関があるということ、これなんですよ。これが究極の姿だろうと思いますよ。ここが出来た時、こういう気持があって、カナダの代表団をここに連れてきたわけですけれど、改めて実際にこの一と月間「街」でウロウロ邪魔していて、そう感じました。これは大きな収穫だったし、大変、勇気づけられました。

 これから出かける全国の旅の中で「吹いて」まわりますから(笑!)。こういう風に頑張っている所があるんだから、参考にして下さいと。  
10月 「差別まつり」 障害者プロレス、韓国舞踊、外国人登録法を考える会、解放同盟、区職労、陽和病院労組、練馬人権センター、介護人派遣センター、狭山英語劇  ビデオ①
12月 マッちゃん、ホームレスに
1995年
1月 「レストラン街」(沖縄料理店・チャンプルー街の前身)のオープン 楽しみの場
5月 共同作業所設立準備会 №69
音楽 6月 チャンプルー「街」オープン №72
9月~ 福祉電話、練馬区保健部を訪問、陳情、№92-93.95.98
1996年
4月 「街」が共同作業所に。ニューアル・オープン
9/9 クラキさん、日本全国出会いの旅へ
1996年
4月~
 すべての家財を処分し上井草のアパートを引き払い、全国の仲間との出会いを求めて旅立った。「関町ケアネットワーク」を足場にして長野、新宿、大阪、北九州、沖縄、佐賀など各地に友情の輪と精神保健改革の灯火を広げてその旅は続いた。 1997年10月3日には北海道帯広市で行われた第40回日本病院・地域精神医学会総会の理事会主催シンポジウム「精神保健福祉法の見直しにむけて」では精神保健福祉法の撤廃と精神障害者の復権を求める積極的な主張を発表した。  

久良木さん「全国・出会いの旅」へ出発
「よう、マツク、あばよ」「街ニュース」170号(1996年9月9日)

 マックの一日は、早出のハマちゃんを迎えるところから始まる。追っかけるように現れるリカちゃんを二階の休憩室へと先導し、ミキちゃんが赤ちゃんを乳児院に預けて足早にやってくると尻尾をちぎれんばかりに振って歓迎する。次々と出勤するメンバーやスタッフ一人ひとりに喜びを表し、迎えられた人々もマックに声をかけ笑顔を向ける。同じ命あるものとして心が通い安らぎを覚え、しかもお互いにさほど負担とならない関係、そこが実にいい。  

 作業所のメンバーやスタッフ、そしてリサイクル品を求めて来店するお客さんだけではない。店とは目と鼻の先にある駅前で、ベンチに座って人通りをぼんやり眺めていると、通りがかりの人達が、幼な子から若者、年配の人にいたるまでマックに声をかけてくれる。仕事帰りの人達がマックの姿に目をとめた時、疲れのにじんだ顔に一瞬精気が蘇り、ふっと安堵の顔を浮かべる。マックが“街”や地域の人々にとって、これほどかけがえのない存在になっているとは、まるでしらなかった。                       ごめんよ、マック。 

 人類はマックのはるか昔のご先祖の頃からよきパートナーとしての付き合いを始め、最近では“アニマル・セラピー”としての役割が日本でも注目されてきた。しかしマックの存在は、心病める人々にとって、また格別の意味を持っている。昔ニーチェという、おいちゃんがいて「諸君犬を見たまえ」と言い残した。マックは、聞いたことがあるかな。

 犬は昨日のことをくやんだり、明日のことをくよくよ心配したりはしない。きょう生きることに精一杯だ。そして他の犬にどう見られているかなど、およそ気にする気配はない。人間も少しは見習えというわけだ。日本の偉い坊さんも同じようなことを言っている。

 人間はだれでも狂気を抱えて生きている。それがふくらんだとき病いとなるんだが、その境い目は、いまここに生きる実感を見失っていないかどうか、そのへんにあるようだ。他人との関わりの中で感じる不満や不安が、過去・未来と行きつ戻りつしながら肥大化する。次第に現実感を失ったとき、不眠や妄想、幻聴などに悩まされる。こりゃ、マック聞いてるか。

 休憩のひととき、ボランティアの方達とお茶を飲みおやつをいただいていると50年前の光景が鮮やかに蘇る。昔、日本の精神障害者は1900年に制定された「精神病者監護法」のもとで、悲惨な境遇に置かれていた。家族が自宅で監置することを義務づけられていたからである。近所のおにいちゃんは、屋敷の日の当たらない座敷牢に閉じ込められ、少し離れたところに住むおねえちゃんは裏庭にあるトリ小屋のような囲いの中に閉じ込められていた。 

 日本が戦争に敗れ、戦後の混乱期で警察の目が行き届かなくなったとき、おにいちゃんやおねえちゃんを家族がそっと外に出しはじめた。最初は遠まきに見ていた近所の子どもたちも、慣れるのに時間はかからなかった。ひと月もしないうちに、おねえちゃんが意味不明の歌を歌いながら村中を歩くのについて回ったり、おにいちゃんといっしょに裏山でシラサギの卵を取るのに夢中になったりした。 

  近所のおばあちゃんが、縁側で針仕事をしながら、おにいちゃんやおねえちゃんにおやつをすすめる。とりたてて会話がはずむわけではないが、おだやかな心休まるひと時、これこそ究極のケアなのかもしれない。しかし、おにいちゃんやおねえちゃんの幸せは永続きしなかった。1950年に「精神衛生法」が施行され、やがて少し離れた丘の上に立つ民間精神病院へ収容された。その後、二人の姿を見た人はだれもいない。    うん、マックどうした。

 “リサイクルショップ街”は単なる作業所ではない。地域の人々が行き交うオープンスペースである。“街”の入口から呼び掛ければ聞こえる距離に“関町ケアネットワーク”がある。“街”のメンバーの休憩室と物置を兼ねているが、ここも地域の人々に開かれた「たまり場」となっている。窓のすぐ下を流れる石神井川の川面に街の明りが映えるころになると、病院勤務を終えたフカワさん、サガさんが日替りで現れる。訪れた人々の話しを聞き、電話口で相談にのるためだ。

 きわめつきは、“リサイクルショップ街”から歩いて3分、西武新宿線南口商店街にある沖縄料理店・“チャンプルー街”である。バンダナが似合うおやっさん、それがハネやんだ。入り口の階段に行列ができることはめったにないが、それでも開店して日が浅いというのに老若男女で賑わう。店内には沖縄からの便りや、イベントの案内が所狭しと張られ、レジのわきには“街”の新聞や各地の作業所のニュースが置かれている。  
 毎日曜日、店の休みを利用して開かれる“サンデー夕食会”はすっかり定着した。いつも20人を越す賑わいで、“街”のメンバーだけでなく地域に住む心病める人達、心優しき人達にとってだいじな集いとなっている。     

 “リサイクルショップ街”を軸に、“関町ケアネットワーク”、“チャンプルー街”の営みは、いま精神障害者にとって必要な地域ケアは何かを鮮明に示している。この営みの中から、マキノさん達の“練馬コンシューマーズクラブ(NCC)”という当事者のグループも誕生した。

 いまハネやんは“チャンプルー街”という地域の人々の交差点にどっしり腰を据えて地域を見つめ、パソコンも駆使してメッセージを発信しつづけている。共同住居という最も大きなテーマに取り組む日も、そう遠くはないだろう。ありゃマック、寝ちまった。

 マックとのお別れの日がやってきた。東京練馬は武蔵関の街を離れ、いよいよ西へ向けて立つ。おかげですっかり充電できた。何年かかるか定かでなく、何を求めて歩くのか自分でも判然としない。昨日のことや明日のことを、くよくよ考えたりするゆとりなど、望むべくもない放浪の旅である。であればこそ、病める心をいやしてくれるだろうと願うばかりである。いつの日かマックの元気な子ども達に会える日を楽しみにしている。じゃぁマック、達者でな。あばよ。

 那覇市に「メンバーズクラブふれあいの会」という会がある。那覇バスターミナルの目の前に4階建てのビルが立つ。その一階に「ふれあい工場」の店舗があります。会は二階から四階までの大半を当事者のためのアパートとして借り上げている。各階7戸ずつ合計21戸のうち1戸は一般の人が借りていて、17戸をアパートとして利用、2戸は離島から那覇に出てくる人達が寝泊まりする部屋として提供し、1戸はアパートの住人や「ふれあい工場」の人達の憩いの場となっている。各戸とも2DKバストイレつきで、所帯持ちでも住める広さである。家賃は月3万3000円、生活保護の住宅扶助が上限3万2000円だから、なんともうらやましい。会はさらに共同作業所もスタートさせた。まだ補助金を受けるにいたっていないが、蜂蜜の巣箱づくりが主な作業となっている。

 会が発足して間もない1995年9月、「有限会社ふれあい工場」を設立、代表取締役には通院中の当事者のひとりが就任した。主な事業種目は蜂蜜や牛乳、天然塩、無農薬野菜など健康食品の販売で、その他清掃の請負、公共施設での喫茶レストランの受託経営など着々と事業を拡大している。職親制度を巧みに利用したりして「最低賃金」並みの賃金確保を図っており、これはもうれっきとした就労の場である。
まず当事者を中心に一般市民も含めた「ふれあいの会」があって、それをベースに地域ケアの施設づくりを進める。この姿こそ東京でなしえていない、そして「街」グループが模索している姿である。
10月 病地学会、大阪、トミタさん&クーちゃん。 四肢拘束反対! 
10月 花崎さん、病地学会で「街」の4日間を報告 №182
11月 ビートたけし「精神障害者からの防御の方法がないので、銃器を解放してほしい」発言 №194
1997年 練馬発日本へ
2月 三恵病院、ヒナまつりライブ/ヨッシー、クーちゃん、村松ちゃん
5月 月桃の花 上映会
9月 マリアライブ、骨髄移植支援ライブ №241
11月 「街」のホームページ完成  №250

③ インターネットの時代
 インターネットをやる前に、「関町ケアネツトワーク」で相談員をしている時に、時々ヒマな時間ができます。従来の相談は練馬区近辺の人、集会で知り合った人など、口コミで伝わった人に限定されていました。開き時間がもったいないないと思っていましたが、当時はパソコンがとても高くて、持っていたワープロにモデムを繋いで、ワープロ通信を始めます。現在では、
携帯で誰でもメールのやり取りをしますが、当時はワープロ通信という形でしか、日本の人、世界の人と話し合うことが出来なかったのです。
1998年 3月 実習生/二週間、洋平くん №266
4月 ステイ「街」(自主運営) 念願の5年目でやっと共同住居 №270
普通のグループホームを作りたくない。混在型ですから、障害によって棲み分けされているので、ほとんど認可されない。
1999年2月 「ステイ街・2、3」~2000年移行
1999年4月 「ハウス街」(自主運営)~2002年1月末、新しい場に引越し。知的なハンディーキャップを持った人たちの生活の場 。「街」の新しい方向性を目指すものとして、7月から一戸建てを借りてリニューアル。
2001年10月 男性専用のマンション「ホーム街」 
2002年4月 女性専用の「女の館」
2004年
自立支援センター「ゆい」(支援費制度)
1999年
4月 「心の広場」スタート
6月 クラキさん追悼 №280
8月 実習生/大地くん、洋平くん №286
9月 アリちゃん、ニュース第一作  中学生・晋くん、一日ボランティア
提携店
1995年4月1日 ②小平「カジャ」
1995年5月15日 ③三ノ輪「ゆいまーる」
2000年10月 ④名護「ジュゴンの家」
2001年1月 ⑤那覇リサイクルショップ「はんたぴあ」 、現在地域活動支援センター
2003年8月 ⑥古着・雑貨・アトリエ「とみしょうや」、
⑦アトリエ「ジロー」
2003年7月 ⑧オープン 鹿児島県・与論島「つどいセンター海」
2003年12月 ⑨リサイクルショップ「杉並」
2008年5月 ⑩リサイクルショップ「たみとや」
1995年 ※「ワークショップMEW」武蔵野市
2000年4月 ※京都の共同作業所・ リサイクルショップ「楽々堂」 銀閣寺近く
処遇困難者病棟新設阻止闘争/しんまつ、前進友の会 、神戸・ニューカトレア会、「街」 チャンプルー交流会№298
12月 カルメン・マキ・ライブ 

④ 「キーサン革命」の時代
全国ハートネット  ニュース №300 記念行動
「全国ハート・ネット」・・・インターネット相談スタート
亀戸・下町患者会「新松橋亭同人」 、江戸川 とぽす響きの会、江戸川 『遊人永屋・こどく館』、練馬 「街」グループ、世田谷・喜多見教会(土・日) 、多摩 あきのティー・パーティー、いのちの電話、神奈川 YAPPYさん、名古屋 サポートネットワーク・坂神さん、京都・たまりば・らくよう、前進友の会、四国・ごかい、九州 2ケ所
1999年 2月  ジンの部屋 №304
仲間 3月 全都患者会研修・交流会 合宿 直子・二ノ宮
自由広場・武蔵関 №312
精神神経学会(東京・ビッグサイト) №320
3―5 全国からステイに続々と人が №314
自由広場・武蔵関代表・藤村仁(Jin) 3月末日
3月31日(水) 家庭内暴力を受けている小学生の女の子二人が「ステイ街・Ⅱ」に緊急ステイ。先週の女性のホームレスに続いて、「ステイ街」は満員状態。今後「自由広場・武蔵関」や『街』の活動の方向性を暗示する出来事でした。
8月9日(月) 全障連大会(自由広場からは12人参加しました) 交流会(チャンプル)ごかいや前進友の会などいろいろなところから来訪者がありました
1999年 9月 チリ、世界精神保健連盟 世界大会へ 
英語版パンフレット、電気ショック療法のアンケート。
9/8パートナーシップ分科会で韮澤さんが、日本の精神医療の現状、「街」の活動内容、「キーサン」の説明、しんまつと待ちの出会い、インターネットが当事者同士・グループ同志のつながりに重要な役割を果たし、その活動の中心に「街」がなっていることを発表。
9/26-9/28 5人(アリ・陽子・中馬、則子、ハネ)で沖縄へ、伊江島・阿波根昌鴻さん97才、謝花悦子さんからお話 №341 沖縄時代のスタート
仲間 10月 全障連大会 「街」10人
11月 病地学会(沖縄) 5人  富田、アリ、ヨーコ、中馬、ゆかり №347
音楽 12月 ヨッシー「総理へ」 音楽時代のスタート
音楽 ヨッシー「俺は売れないロックンローラー」今年のチャンプルー大賞

⑤ 音楽と沖縄の時代
2000年 1月 新春第一弾 首相官邸へ 「ノーレイプ、ノーベイス」№364
1/11 則子さん、入院
悪性腫瘍との戦闘宣言 http://macimaci.web.fc2.com/2000.3.2.html
 1月12日、昭和病院に入院して以来、1月21日の左脳の脳腫瘍手術、31日の子宮筋腫手術、そして2月24日の関東逓信病院でのガンマーナイフよる右脳の放射線治療という3度の手術を乗り越えて、3月4日に退院してきました。

 しかし手術後の病理検査の結果、私の病が「平滑筋肉腫」と判明しました。これは悪性の子宮筋腫で、医者の話では「余命、最大2年」ということでした。そして2月18日から「化学療法」(抗がん剤の投与)を受けています。今後、4度の入退院を繰り返しながら、転移・再発の防止のための治療を続けて行くことになります。これからの入院の際には化学療法による白血球の減少のために、勝手ながら面会を控えさせてもらうかもしれませんが、ご了承して下さい。

 「余命2年」、しかし私は不幸な存在なのでしょうか?
 おととしの11月に、ハネやんの叔母さんがガンで亡くなりました。彼女は社交ダンスに生涯をかけてきた人で「私は踊りながら死にたい」と常々言っており、6年前ガンの告知を受け、そのことを誰にも知らせず死の直前まで踊り続け、入院後もお弟子さんにベッドの上からダンスを教えていました。72歳の人生を彼女はダンスと共に生き、そして死んでいきました。彼女の生き方を見て、私もそう生きたい!と思いました。

 人間の命には限りがあります。私が思ってきたことは、「1日でも悔いのないように生きたい!」と言うことです。私が「街」をやってなかったら、今みたいな生き方はできませんでした。「街」でのメンバー、ボランティアさん、地域の人との出会いが、私の生き方を大きく変えてくれました。また、私が病になることで、「街」の一人ひとりが生まれ変わって、私がいない分を担ってくれてます。そのことに感謝しています。だから私は安心して闘病生活に入ることができました。

 私は今、とても幸せです! 「街」で生きているからです。私の生きる場所は病院ではなく地域の中・「街」なのだということを実感しています。これからもよろしくお願いします!
                              2000年3月5日 赤羽 則子
音楽 2月 ヨッシー「都知事様へ」
イ・ジョンミ・ライブ 則子さん、入院 №371
2/17 お礼と現状報告 №374
3月 3・17沖縄・名護に新基地をつくらせない大集会 №395 東恩納琢磨さんを見る
仲間 東京病者・地域ホットライン №397
4月1日 アリちゃんを沖縄へ代表派遣 №400号記念行動 
http://macimaci.web.fc2.com/2000.4.1.html
沖縄派遣隊…ジンくん・壮行ライブ №411-4/25
4・28 命どぅ宝 平和世コンサート
4/29 日 ヨッシー・神奈川ライブ、セブンスローズ、社会臨床学会ライブ
仲間 5月 精神神経学会(仙台)シンポ実力粉砕前進友の会 、ごかい、ほっと、藤枝、神戸、「街」新松、全障連・森、元木30人 №418
「街」沖縄旅行 14-16 平和市民集会・アゴラ、サミット反対集会、ジュゴンの見える丘でメンバーが握手 №419
6・3 すべての命のチャンプラリズム/知念良吉&パラダイスドンドン、カーミーズ、李政美、セブンスローズ、ヨッシー&沖縄料理店チャンプルーズ、おーまきちまき、佐々木恵、花&フィノミナン、ユニークバンド、スローダンス、福島泰樹(短歌絶叫詩人)、他
⑥ 政治の時代へ 転換-これまでのスタイルを越えて
6・4 長谷川選挙へ
6・14 ヨッシー「介護保険」 №428
7月 沖縄サミット 4人参加
8・12 ハウス「街」・ジュゴンの家 オープン №439
8月 心の叫びコンサート 目黒精神保健を考える会 №444
8/17 ジュゴンの家の改装 №445 8/15-
8/26 第二期・ジュゴンの家、契約完了 №450 8/28入居開始
仲間 8/25 陽和病院夏祭り №454
9/3 日  石原都知事自衛隊出動訓練反対集会
9/7 アリ&陽子沖縄へ出発 №459 
10/7 沖縄料理店チャンプルーズ(アリ&ようこ)全精連沖縄大会・懇親会ライブ
10/8 名護・北部精神障害者生活支援センター「ウェーブ」交流会ライブ
10/15 ハンセン病集会ライブ(詳細は10/12日誌)、夜は立川で反戦コンサート
10/22 非核の街ヨコスカ・第15回ピースフェスティパル
10/23 「ほっとスペース八王子」ライブ、午後6時から
11/5 アイヌ料理を作って食べながら(詳細はここ)+Mick(ミック)投げ銭ライブ
11/21 キリングセンス・萩原正人さん、肝臓移植手術成功、挨拶ライブ。

以下、則子さん
10/15 「ジュゴンの家」オープン №468 計50名
2000年10/11(水) 名護「ジュゴンの家」 8.15オープン
 沖縄サミットが終わった7月末の沖縄料理店・チャンプルー街(まち)でのこと。「名護に家を借りよう!」「オープンは8月12日にしよう!」  「街」の方針は、いつも酒の席で決められてきた。

 8月9日、若者2人が沖縄へ飛び立った。僕たちの活動は、いつもそんな金もコネもない所から始まる。12日、名護・久志地区の家に居候する形で、第1期「ジュゴンの家」がオープンした。「小さく作って、大きく育てる」という「街」のやり方で。

泡盛を飲みながら考えてみた。「さて、僕たちは名護へ何をしに来たんだろう?」と。

 「沖縄に来て半月。第1期『ジュゴンの家』~第2期『ジュゴンの家』へ。そして『沖縄情報センター・街』構想などなど。この過程は、僕たちが沖縄で出来ること、沖縄の人たちと出会い・交流すること、そこで得た内容を東京に持ちかえり僕たちの日々の活動に活かすこと、できるだけ多くの人が東京から沖縄に来て日常的で・大量の交流を積み重ねることを模索し・試行錯誤する半月だった。僕たちができる事、それは『地域』ということに徹底的にこだわること。『連帯・共闘』を声高に叫ぶのではなく、地域の人たちの生活に根ざした『現実』から始める。それが『街』の精神・スタイルである。たとえどんなに小さくても、一つひとつ堅実で着実な前進をして行きたいという想いで一杯になった(「ジュゴンの家・日誌」8/30より・以下、「日誌」とする)。 

 海の見える西海岸の「ジュゴンの家」のベランダで泡盛を飲みながら考えてみた。「確かに家は作ったけど、人が来ないなぁ」

 当面は、若者組・年配組の2組を中心として「半月、東京で働き、半月、沖縄で動く、2組交代制」という態勢を作って、東京・沖縄半々の生活がスタートした。当然、「街」のスタッフは半減するが、この機会を僕たちの成長のチャンスに変えよう! 

勿論、金は無い。経験的に言うと、無い時こそ良いアイデアが浮かぶもの。必要は発明の母だ!

 「27日、名護市役所への行動の後、首里の『あごら』(「精神障害者」の共同作業所)に行く。所長の上地さんや、『あごら』のメンバーの人たちが温かく迎えてくれました。上地さんと石垣さんが『街』『チャンプルー』を見学した
のは19~21日。それから福島でのデイケア学会に行ったそうです。でも『街』の印象が一番と言ってました。帰っ
て早速3時間あまり、『街』についての報告・討論会をしたそうで、そんな所に僕たちが行ったから、凄い迫力で迫ってきました。是非、『街』に見学に行きたいと言う女性メンバーもいましたよ。『あごら』は店の入口の部分を
開放してリサイクルショップを始めるそうです。名護・首里・那覇を結ぶネットワークを作って、共同のリサイクルセンターができたらいいなぁ、と思いました」(「日誌」9/27より)。

 2000年10月2日、第3期「ジュゴンの家」の店舗契約をした。そこでリサイクルショップを始めることにした。リサイクルショップを「ジュゴンの家」とし、アパートを「ジュゴン・ハウス」という名に代えた。

 「市役所へ行った後、今日発足する『北部精神障害者地域生活支援センター・ウエーブ』の開所式に参加。名護市障害者関係団体協議会(身体・知的・精神の各施設の他、社会福祉協議会など14団体で構成)が要求し、農協の建物を再利用してオープンすることになった。ここには草木染めのTシャツなどを作っている『虹の橋作業所』が移転してくるほか、憩いの場・生活相談(緊急時は24時間対応)・地域交流など『北部地域で生活されている精神障害者の自立・社会参加と福祉の向上を目的としております』とパンフレットにある。

 名護市障害者関係団体協議会の固い団結は、縦割り行政による『棲み分け』政策を超えられない東京の活動と違って『バリアフリー』を実践している気がする。21世紀を迎える今、そうした柔軟でしなやかなネットワークが福祉にも、政治にも必要だと思う。会場には、今回の沖縄滞在で知り合った人が沢山来ていました。福祉の場で、ヘリ基地反対の場で。そして新しい出会いもありました。1週間ほどの滞在で、随分、多くの出会いがあったんだなぁ、とビックリ」(「日誌」10/3より)。

12/11 やんばる平和まつり №479
2001年
晋くん 沖縄通信 №483 1/11
1月 沖縄・那覇 「はんたぴあ」オープン №485
1月7日 宮城康博さん、名護市長選、頑張れカンパ行動/
1月12日 洋平君、自立生活再開
2/19 ヤング・ムーブメント 名護№492
2/25 朝倉殺人病院に15人で抗議 №493 
3月7日 共同作業所めぐり第2弾、杉並区「151
共同作業所めぐり第3弾、目黒区「ワークイン翔」
3月19日 仁君の「心病んでも」
4/8 第3回「満月まつり」に、ヨッシー&ジュゴンの家・田中哲郎/沖縄名護市・瀬嵩の浜
4/8 満月祭り/東京は全生園で7人で
4/9 8回「フォークの日」に、ヨッシー&ジュゴンの家・出演/那覇市松尾、ギャラリー・オープンスペース、
沖縄の労働者と交流
4.25 「医療観察法案」反対・国会前座り込み&全日空抗議闘争
5・6集会、「街」50人動員
6/6 ジュゴン発見 №517
6/12 法務省・厚生労働省合同検討会の傍聴 №518 
6/10- チャンプルー・ファイナル・ライブ 11日目 №519-
7月21日 住民基本台帳ネットワーク反対、集会・デモ
7/24 つくる会教科書 採択阻止 №522 「街」から7人 
インターネットはここから↓掲載
9/1 ビッグレスキュー2001 №526
9/7 李京海さん断食座り込み
9/16 それでも基地は必要ですか? 三多摩集会&デモ
9/21 新曲「9月11日 あるクラスの出来事」
9/22 ヨッシーの新曲「間違っているぜ」
9.24 9.24 ジュゴンチャンプルーウォーク
9/26 ヨッシーの新曲『東京の空の下から』
10月12日 慈雲堂まつり
10/21 10.21国際反戦デー集会
10/31 「テロにも報復戦争にも反対!日本は戦争に協力するな 観閲式に反対する平和の集い
 in 練馬2001」の集会デモにヨッシーが出演しました。ガンちゃん,とみたも参加/
11.3  11.3 ライブ&ピースウォーク「今すぐ戦争をやめて!!」in井の頭公園
11/8 北富士闘争
11.11 労働者集会にアリ&ようこちゃん、ヨッシー、ミヤちゃんが参加
11/26 紙芝居「ジュゴンの来る海」
11/28 東京都の監査
12月12日 日野「君が代」伴奏拒否処分撤回闘争
12月24日 狭山事件の現地調査
12月25日 12・27多摩市教育委員会傍聴のお願い
12月27日 新基地建設反対、市民投票の民意を守れ・東京要請行動

2002年
1月5日 宮城康博さん名護市長選立候補
1月24日 「街」、沖縄・名護へ総決起 (^o^)丿
2月27日 「街」に研修に来て・うらら
全国連・第11回大会に参加
3月8日 共同作業所めぐり第3弾、目黒区「ワークイン翔」
3月13日 「処遇困難者専門病棟」新設阻止共闘会議の法務省行動
仁君の「心病んでも」/共同作業所めぐり9弾「ほっとすぺーす関町」 10弾「西荻館」
3・24 3・24 保安処分 反対集会 報告 
3月26日 阻止共闘、交流会
3月31日 ヨッシー、仁君、02春闘総行動中央集会で唄う
飛行機搭乗拒否事件と精神障害者差別問題/近畿日本ツーリストクラブツーリズム
国内旅行センター責任者 殿
4月6日 有事法制に反対する4・6全国集会
4月16日 4・16 有事法制反対 国会前行動
4月18日 陽和病院での学習会に参加・「国内旅客運送約款」
4月21日 全日空に搭乗拒否された大石さん・池辺さん来店
4月25日 「医療観察法案」反対・国会前座り込み&全日空抗議闘争
4月27日 全日空、「精神障害者」に対する差別規定を変えるとの回答
5・6 予防拘禁・不定期拘禁 反対集会
5・17国会包囲「人間の鎖」行動へ!
5・24有事法制反対 5万人集会
5月27日 「ヨッシーとジュゴンの家」、有事法制反対集会に出演
5月30日 ワールドカップ開催県における「精神病」者弾圧攻撃/
 6・15 つぶせ!有事法制 みんな集まれ全国集会KOTOBUKI(寿)1:30~
 「ヨッシーとジュゴンの家」発言/宮城康博さん(前・名護市議)
6月23日  宮城盛光さん、小泉首相に抗議
6月25日 前進友の会へ行ってきました
6月30日 サギリちゃん、沖縄壮行会
7月18日 「ユージ君」国会デビュー
7月21日 住民基本台帳ネットワーク反対、集会・デモ
7月23日  ヨッシーの新曲『Rip it up(破り捨てろ) ~住民基本台帳ネットワーク』
有事立法廃案、継続審議粉砕 7・26全国総決起集会
8・5-7 ヒロシマ
立川・横田基地を撤去しよう 8・11集会報告
8月16日 社民党「8・15平和集会」でライブ
9・1防災訓練粉砕闘争
9月4日 ヨッシー、ガンちゃん沖縄到着~宮城盛光さん、知花昌一さん激励
9月5日 読谷・「残波ひまわり通信」
9月12日 残波ひまわり隊、帰京
9月15日 映画「無法松の一生」上映会
9月18日 住民基本台帳ネットワーク反対・練馬区役所行動
9・22 有事法制反対集会
9・27杉並集会
9月29日 ウララちゃん・晋くん・サクちゃん、沖縄へ出発
10月1日 高ちゃんの定年祝い
10月2日 戦争を拒否しよう!10.2集会&平和コンサートin八王子
10月5日 まよなかしんや「店頭」青空ライブ
予防拘禁法を廃案へ!! 10.6集会
10月7日 ハネやん 緊急入院
10月20日  ハネやん復活
10/30 10・30 「精神障害者」差別、保安処分を許すな!予防拘禁法を廃案に!秋季国会共同行動
日本社会臨床学会 秋の学習会 なぜ今「触法精神障害者」
10・27 国労団結まつり 新宿
マリちゃん頑張れ! 暴力・自衛官・Yを許すな
11月1日 月末恒例・狭山紙芝居「私は無実」
11月6日 ヨッシーの新曲『イラクの子供たちは今』
11・9 砂川秋まつり
11・10 11・10労働者集会
12月24日  狭山事件の現地調査に参加
12月28日  狭山事件・紙芝居
12月9日 国会速報!フッ君第一声! 国会速報 フッ君、国会で拘束されるが、無事帰還・特集イージス艦派兵やめろ 今日、横須賀へ総決起!

2003年
1月7日 新年会、誕生日会、ハネやん大腸がん手術壮行会。
1月11日 ハコちゃん帰る/ハネやん手術日誌
1月22日 ワシントン派遣団帰国! 
2月7日 ハネやん退院!!
新曲『誰でもできる イラク戦争反対 アメリカ製品 不買運動』
横須賀集会 太鼓デモ 全国連合会
3月14日 「イラク反戦・ストリート・ファイティング・バンドStop War! World Actionの時代
4月 女性専用の「女の館」
4月12日  渋谷ピースウォークに3000人    ビデオあり 

ここまで、則子さん


以下、リッちゃん

2003年 関町・反戦週間 5・11 東京演劇アンサンブル「反戦集会」
5月16日 関町ピースウォーク/ ビデオあり
5月26日 狭山現地調査
7月29日 「ヨッシーとジュゴンの家」5thシングル『戦争イブ』『岐路-2003(星野文昭さんと共に)』
7月30日 住基ネット反対、ビデオ&ライブ・イン「街」
8月21日 リサイクルショップ「とみしょうや」オープン
8・31 「8・31統一マダン・東京」
10・25 渋谷 世界反戦ウォーク 特集 51人決起
街・与論島へ
11月16日 まよなか★しんやさんのライブ 11・14-16 星野さんをとり戻そう!徳島全国総会・集会
11・9 11・9 労働者集会、写真速報
11月22日 外環道・青梅街道インターチェンジ問題
12月1日 リサイクルショップ・すぎなみ、契約
12・7 浦和の街をデモしよう!
知花盛康さん来店 マック逃走
12・20 渋谷ピースウォーク
12・23 狭山現地調査

2004年
1・22  小牧現地闘争
3月8日 部落解放同盟全国連合会 第13回全国大会速報
3・20 日比谷集会・特集 写真速報!!
⑧ 辺野古の時代 2004年
4月20日 ついに始まった基地建設「ボーリング調査
4月21日 3人、名護に向けて出発
6月6日 ピースウォークin浦和に行く!
6・13 有事法制廃案!国会行動 6・13芝公園
7月31日 砂川で芋掘り
8月1日 自立支援センター「結(ゆい)」本日オープン
8月2日 8月2日(月)  国会前、座り込み
8月5・6日 ヒロシマ特集
8月15日 15・16日、アメリカ大使館、抗議行
8月30日 都教委包囲デモに参加
9月2日 「街」電撃解散か?!革命旅団「ヨッシーとジュゴンの家」結成か?!9・6 辺野古総力決起を決定!
9・6 辺野古 座り込み
10・10 三里塚闘争全国総決起集会 
25-29日 「街」与論・沖縄旅行 
11月5日 「11・5 ぬちどう 魂の声」「街」上映会
11・7 全国労働者総決起集会 写真速報
11月11日 沖縄で逮捕された学生A君を取り戻 す会
辺野古 海上攻防戦 11/26~
12月17日 「街」の「忘年会&クリスマス会」特集

2005年  
1月2日 「ヨッシーとジュゴンの家」の新曲『辺野古の海から』
3月12日 都立石神井高校・卒業式行動に関町住民など21名が決起
3月28日 新CD 『石原ファシスト』
沖縄から再び辺野古へ
5月14日 はじめて、やぐらにお泊り!とみたなおこ
5月19日 夜間作業、急転中断へ 
8月10日 8月10日(水) 「杉並・親の会」から緊急要請
8月11日 与論島へ
9月4日 9・4 防衛庁「人間の鎖」行動
10・9 三里塚 全国総決起集会 
11月 11日  ピョンテク(平澤市)、12日 韓国 前夜祭 13日 韓国 民主労総大会 最初の訪韓
12・3 教育基本法・憲法の改悪をとめよう! 12・3全国集会
12月6日 新CD 『闘いのウタ』
12月23日 狭山現地調査&餅つき

2006年
3月11日 石神井高校・卒業式
5月10日 「ヨッシーとジュゴンの家」の新曲『この世界は労働者が動かしている』本日発売!
6月11日 金城祐治さん(命を守る会)、安次富浩さん
7月14日 外環道・青梅インターチェンジ建設絶対反対、住民行動
8・15 小泉・靖国参拝反対集会大爆発!
「ヨッシーとジュゴンの家」の9月の新曲 ①市東さんの畑で!②撤廃させよう!「障害者自立支援法」 ③9条変えるな!SAORI バージョン
10月13日 新曲「ファシスト安倍政権を倒そう!」
11・5 11・5労働者集会
11月10日 韓国~11月12日 韓国 民主労総大会 
11月15日 教育基本法改悪 強行採決を弾劾

私が「街」に来た理由 リツ子
 私には27歳になる、知的障害の息子がいます。息子が17歳の時、就職の実習として「街」に通ったのが始まりです。彼が毎日、あまりにも楽しそうに帰ってくるので、なんだろう? 「街」ってどう いうところだろう? と、思い始めたのが「街」に興味を持つきっかけでした。

 そもそも、私は息子が18歳になり、養護学校を卒業したら何かを始めたいな、と、考えていました。その為にも手に職をつけようと、まだ、息子が小さい時から、色々な事をしました。(舅や姑がいたので家に居ながら何かを、と)染色の花作り、編み物、ケーキ作り、何とか社会に関わって生きて生きたい、そんな事を考えていました。

 でも、何をやっても満たされない自分がいました。 そこそこ技術は身に付きました。結構頑張るので、仕事として少し稼げたりもしました。でも、違うんです。なんだかわからないけど、私はこんな事がしたいんじゃないんだ!と、いつも思 っていました。所詮自己満足のように思えて、心が満たされなかったです。

 一体、何を自分はしたいんだ!!そんな時、「街」に遊びに行く度にもらって帰ってくる「街」ニュースがおもしろくて、度々「街」に通うようになりました。初めて行ったときは女性のホームレスの人の事で、やたら皆が熱く討論していました。本人を真ん中にして、その周りの人たちの、熱いことといったら・・・ 他人のことなのにこんなに熱くなれる人達がいるんだ、と、しばしあっけに取られました。

 次に「街」に行くと、「お向かいのマンションの一部屋借りたのよ、地方から出てくる若者が泊まれるようにネ。」です。 その頃、インターネットで「街」を見た若者が何人も上京してきていました。その必要に駆られて部屋を借りた、というのです。必要だから自分たちで借りる。お役所を当てにせず自前で、です。 「この人たちは本気だ!」とガツンとやられました。ここはもしかすると信用できる!!確信にかわっていきました。

 よし、ここでこの人たちと一緒になにかできるかも、と、決意。早速、「ボランティアになりたいんですが・・」とお願いして通うようになりました。

 「街」でボランティアをするようになって、わかってきたこと。 それまでは障害児の親、という立場しか持っていませんでした。差別される、不愉快な同情をされる、舅からは障害児を産んだ嫁、と疎まれる、山のように嫌な想いをしている。と被害者意識ばかりでした。それが、「街」に来てからはこの差別は社会の問題なのだ、と気付かされました 。誰かを差別する、競争する。小さいころから競争させられ、ほかの人を蹴落として自分が勝つことを目標とする。ほか人より「いい生活がしたい」「金持ちにな りたい」「自分さえよければいい」 こんな社会のあり方こそが問題なのだ。だったらこの社会のあり方を変えていかなければいけないと思うようになりました。

 個人の問題ではなく、社会全体、世界の視点から色々な事を見るのが重要なのだ 、と。そして、私もまた、だれかの足を踏んでいる存在なのだ、ということも かってきました。今のこの生きづらい社会をひとり、一人が自分らしく生きていける社会に変える。差別も偏見もない社会を作る。私がやりたかったことはこれなんだ!と、やっとつかみました。自分の生き方を ようやく見つけた、転機になりました。

 2004年4月、沖縄辺野古に新しい米軍基地が作られる、防衛施設局が基地建設のための調査を始める、というニュースが飛び込んできました。 早速、街から3人、急いで辺野古に駆けつけました。ここから辺野古阻止行動隊がはじまります。(辺野古アクションを使う) ゆっくん、ヨッシー、えびちゃん、まさ、熊ちゃん、街からもたくさんの若者がかけつけました。地元のおじぃやおばぁとともに絶対にこの辺野古の海に基地は 作らせない、という命がけの闘いがはじまるのです。 ついにボーリング調査は白紙に戻し、基地建設をとめるという勝利を勝ち取っています。(また、新たに別の基地計画が進められていますが・・)

 2005年11月、全国労働者総決起集会に街から16人と1匹で参加。翌週は街から7人の参加でソウルの労働者大会へ行きました。 何万人という労働者で12斜線の道路いっぱいに封鎖し、路上に座り込み、そこで集会です。言葉はわかりませんでしたがその怒りの渦の中でわたしは魂がふるえました。 見渡す限り、人、人、人、です。そこで発言した人の中にソウル大学病院の清掃の労働者の女性たちがいました。彼女たちは非正規労働者。1日働いてわずか5 00円(5,000ウォン)だというのです。 まさに「生きていけるだけの給料よこせ」という闘いです。経営者と闘わなければ殺されてしまう。他にも次から次から発言する労働者の激しい怒りが集会中にあふれていました。声をあげていかなければ、このままでは生きていけない。まさに「生きさせろ!」という叫びび。その怒りの真っ只中に身をおいて私は「私も変わらなければ!」と本当にこのときが2度目の、自分の生き方の転機です。

 働く人たち、労働者が主人公の社会を作ろう!世界中の労働者とつながりたい!と思いました。 2007年3月、先ほど話した、辺野古で闘っていた若者たちが今、東京に帰ってきて、東京でやれること、労働運動で戦争をとめよう。労働者の団結した力で戦争も戦争のための基地もない社会を作ろう、と、福祉労働者連帯ユニオンを立ち上げました。 辺野古のおじぃが「東京を変えてくれ」といっていたその遺志をついで職場でがんばっています。もちろん、シニアの私たちも一緒にがんばっています。

 2008年4月、街から3人が細胞分裂しました。富田さんは目黒の実家でリサ イクルショップをしながら、地域の人たちとどんどんつながっています。ゆっく ん、ヨッシーは、福祉労働者として、職場で働く仲間と団結を作っています。労働組合を立ち上げるのももう少し、のところまできています。 「街」に残った私たちも作業所の福祉労働者として地域の人たちと、たくさんの作業所や、福祉施設や、病院などの労働者とつながって闘うネットワークをつく りたい。障害者自立支援法絶対反対で闘う仲間と繋がっていきたい、と、考えて います。

 今年、11月2日に全国労働者総決起集会が日比谷野外音楽堂で開かれます。 この集会に1万人集まって、今のこの社会を「労働者が主人公の社会」に変える 大きな力を作り出しましょう! 世界の労働者とつながりましょう!!
ナンちゃん
 ① 利用者としての「街」
 私が「街」にくる前は、チラシ配りだとか、ペンキ屋の営業などをしていました。特にペンキ屋の営業はすごく大変
でした。「飛び込み」と言って一軒ずつ回るのです。その中で社長の挨拶を聞いてもらえる所」を「一日4件はとって
来ないといけない」というノルマがありました。 ある時から、全然取れなくなり、強いプレッシャーを感じるようになり
ました。それからは毎日が地獄でした。近くの精神科に行ったら、最初は神経症と言われましたが、ストレスがドンド
ンたまってきて「後ろから追いかけられる」など幻覚症状が出るにいたり、「統合失調症」と診断されました。やがて
「体力的に無理」と判断して会社を辞めました。それからしばらく療養生活を続けていました。
 ある日、「イラクの子供たちは今」という写真展に参加したら、偶然「ヨッシーとジュゴンの家」の人たちが演奏して
いました。すごく楽しそうだったので、「この人たちと一緒にやれば病気を克服できるかもしれない」と直感し、「街」に
連絡したので、「街」とであったキッカケでした。

②「街」にいると思った以上に色んな人が訪ねてきて面白い毎日です。病気も人との交流の中で自然に良くなって
いきました。作業所の利用者も超低賃金の労働者です。資本主義社会の中で、労働者が「障害者」と健常者、「身
体障害者」と「精神障害者」というように分断されています。分断されている限り、世の中は変わりません。
 利用者は、自立支援法の施行以来、利用料を取られ、最低限の生活を強いられています。すごい怒りをもってい
ます。だから労働者として団結した時、ものすごい力を発揮できるし、社会を根本から変える力を持っているのです。
だから利用者は、職員も獲得し、職場を越えて他の作業所の労働者とも繋がっていけば、展望が開ける。自立支援
法も廃止にできます。私自身、その先頭に立って闘いたいと思います。
 
2007年
3月5日 3月の新曲「俺たちは、とにかく生きる!」
⑨  労働運動の時代 2007年
3・10 福祉労働者連帯ユニオン結成大会です
3月10日 都立・石神井高校 卒業式
4月23日 北島邦彦さん38位・当選
5月23日 大泉車止め撤去、断固阻止闘争 
6月9日 6・9 ワーカーズ・アクションin渋谷
6月13日 セブンイレブン&大和ハウス、強制着工弾劾!
8月9日 雨宮処凛 TALK&GIG
8月22日 大和ハウス、「暴行・傷害」デッチ上げを画策
9月2日 福祉労働者連帯ユニオン、第二回大会、大成功
9月29日 参加者12万人余・本土復帰後最大の集会 ワーカーズ・アクション
10.28 自衛隊観閲式反対! 10.28行動 in 練馬
11・4 11・4労働者集会
11月10日 訪韓団 三度目の訪韓 
11月14日 グレゴリー・ソティアさんが来店
12月4日 沖縄戦「集団自決」教科書検定意見撤回を求める、文科省要請行動
12月25日 文科省要請と文科省前行動
12月30日 大和ハウス裁判で完全勝利!

2008年
1月12日 福祉労働者連帯ユニオン、怒涛の旗開き
1月30日 練馬区に申し入れ
3/8 石神井高校・井草高校、卒業式行動
3・9弾圧
3月19日 3・9弾圧、2人の青年労働者、奪還!</
3月23日 リサイクルショップ「杉並」が3月一杯で閉店
3月26日 4人全員を奪還!
3・30  3・30 三里塚闘争
4月1日 街・細胞分裂
5月7日 福祉労働者連帯ユニオン「街」分会 毎日ビラ・スタート/
6月15日 6・15 新宿街宣 警察・機動隊の弾圧を粉砕
6月19日 動労千葉・中村さんを囲んで
6・29 サミット粉砕!6・29渋谷デモ
7・6 7・6サミット粉砕札幌集会
7月13日 築地すし好との第一回団交
7.11 ソウル・ワーカーズ・カフェ(屋台)のスタート
7月24日 東京コンドル分会を結成し、団体交渉の申し入れ
8月12日 コンドルタクシー本社へ団交の申し入れ
8月25日 SU団交
9月7日 福祉労働者連帯ユニオン3回定期大会
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