沖縄と本土をむすぶ2・16労働者集会が杉並産業商工会館で開催されるという話を聞き、反対同盟は、沖縄との連帯を深めるためにメッセージを送ります。
振り返って見ると、私が沖縄の地を踏んだのは沖縄返還の前後でした。
1972年当時、私は三里塚芝山連合空港反対同盟の事務局長として厳しい闘いの中、沖縄全軍労の労働者から是非沖縄に来て三里塚の情況を話してもらいたいと要請がありました。
私の心の中には以前より、沖縄闘争との連帯が絶対に必要であると思っていました。
全軍労から集会参加の要請を受けたのは3月19日の沖縄における全軍労主催の集会でした。
ところが、沖縄へ行くにはパスポートが必要であるといわれ驚きました。それは全軍労のほうで用意するので是非参加してもらいたいとの事でした。
その後、連絡がないので沖縄の全軍労に問い合わせたところ、「今北原事務局長のパスポートの件について奮闘しているのだけれど中々降りないのですよ!何とか取り付けるようにします」と言う返事がありました。しかしその後、北原鉱治さんにはパスポートが降りない、という事が報告されたわけです。
これは一体どう言う事だと!怒りました。なぜ私にパスポートが降りないのか?と。全軍労の方が色々やってくれましたが、とうとう72年3月集会には間に合わなかったのです。そしてその年の5月15日沖縄県として欺瞞的返還が米国と決着がついたという報告を受けました。
その後私の心の中に何故私にパスポートが降りなかったのか?と言う事について調査をしたことがあります。そしたらパスポートは総理府で発行すると言う事が解りました。
72年5月15日に欺瞞的返還がなされた結果、今度はパスポート無しで沖縄へ行けるという情況が生じたわけです。この年の7月でしたが私は敗戦後初めて沖縄の地を踏むことが出来ました。
沖縄全軍労組合員の案内で読谷村の役場に行きました。それから役場の人達の好意によって役場に泊めていただき交流会・講演会に参加したことがありました。
三里塚芝山連合空港反対同盟が闘う者として始めて沖縄の地を訪れたことを感動と共に強く印象に残っています。
今回の「沖縄と本土をむすぶ労働者集会」が第2回目になると聞いています。その後、私は自分が「天皇の赤子」として沖縄敗戦に参加した一人として絶対に「沖縄と三里塚」とをむすび付ける事が必要だと感じた経過がありました。それ以来、沖縄へは年に1回労働者・漁民の集会へ参加してきました。 CTS石油基地の反対闘争にも参加しました。おそらく20回ぐらい沖縄と連帯して闘って来ました。
今、「日本はどこへ向かっているのか?」と言う事を分析して見るとロサンゼルスタイムスによって沖縄と成田空港とはアジア有事の際には絶対に必要な拠点であると言う事が1995年に報道されていたのが思い出されます。
1972年当時の沖縄米軍司令官は、沖縄返還後、本国(米)へ帰る際にメッセージを残し、それが新聞に書かれたことを思い出します。その内容は「私は沖縄を去るけれども沖縄県はアジアを守るためには絶対に必要な拠点である。もっともっと沖縄県を軍備強化しなければならない」というものでした。
それと同時にロサンゼルスタイムスによると一朝有事には成田空港も軍事拠点として必要だと報道されていました。そうすると米国が考えていることは沖縄県をもっともっと軍備強化する事と同時に、「一朝有事の際に米軍50万人がアジアを防衛するために必要とした場合、成田国際空港は軍事拠点として使用します」という意図だったことが分かったわけです。
つまり、沖縄県と成田空港は米軍から見たら軍事基地の典型的な拠点になるということを意味します。有事というのは色々と拡大解釈できます。現在まで日本がたどって来た過去を振り返ってみると有事を作り出して戦争になっていったことが過去にいっぱいあるわけです。
「有事」という言葉は攻めていくときも有事、守るときも有事と拡大解釈できます。現在の沖縄の様子を見ると30年前とどう変わっただろうか? 益々沖縄は軍事要塞の島として強化されたのではないでしょうか? この様相を見たときに成田空港に反対して闘うことは「地球の平和、命の尊さ」これを原点にする闘いであるという結論に至ります。そのような原点に基づいてたたかわなければ、絶対に平和を守れないという情況に突入したと思います。
今、三里塚は幾多の激しい闘いの中から43年目に入りました。成田国際空港というけれどもこれは軍事基地として作られてきた空港であると!この様な情況を見た時。沖縄県民と三里塚とは一体になり、団結して闘わなければならない、と思います。反戦平和のためには共闘して闘わなければ命も守りとおせないのです。そうすれば必ず勝利できると確信します。
本集会を通じて三里塚は反戦平和のために沖縄と連帯して闘うことを皆さんに訴えて反対同盟からの挨拶とします。